一口に「日本の伝統芸能」と言っても、種類や成立年代は様々です。ユネスコの「人類の無形文化遺産の代表的な一覧表」に含まれている日本国内の無形文化遺産は、数々あります。その中から、2008年に登録された「能楽」「人形浄瑠璃文楽」「歌舞伎(伝統的な演技演出様式によって上演される歌舞伎)」について見ていきましょう。

能楽の歴史

「能楽」とは、能と狂言を総称する言葉です。能楽のルーツは、奈良時代に大陸から持ち込まれた「散楽」にあります。散楽は、歌舞や物まね、曲芸、奇術など様々な要素を持つもので、朝廷は「散楽戸」を設けて演者の養成を行っていました。平安時代になり散楽戸が廃止されると、演者たちは各地を巡演。やがて「猿楽」と呼ばれるようになり、当時流行していた「今様」や「白拍子」などの歌舞を取り入れながら発展し、「座」というグループを形成しました。

南北朝時代から室町時代にかけて、「大和四座」と言われる結崎座、坂戸座、外山座、円満井座が力を持っていました。この四座は、結崎座が観世流に、坂戸座が金剛流に、外山座が宝生流に、円満井座が金春流にと、現在も続く流儀の礎となっています。

結崎座を創立した観阿弥は、物まね芸であった猿楽に舞踊と音曲の舞の要素を加え、新たな芸能を作り出しました。そして観阿弥の子の世阿弥は、時の将軍足利義満の寵愛を受け、父の芸能を受け継ぎ、大成させました。これが、現代に続く能の基礎です。また、緊張感のある能の合間に演じられた演目が、笑いの芸術と呼ばれる「狂言」の発祥です。

江戸時代には新たに喜多流が一流樹立を許され、以来、この四座一流が幕府の「式楽」に定められました。

明治維新以後、一時は衰退の危機を迎えましたが、政府や皇室、華族、新興財閥のバックアップを得て復興。家元制度の導入や能楽堂の確立を行ったのもこの時代です。やがて1957年には重要無形文化財に指定されました。

人形浄瑠璃(文楽)の歴史

文楽は、「語り手(太夫)」「三味線」「人形遣い」が三位一体となった芸能ですが、元々は別々のものでした。江戸時代初期に、物語に節をつけて聴かせる浄瑠璃に三味線が加わり、そこに人形劇を取り入れて生まれたのが「人形浄瑠璃」です。1684年に竹本義太夫が大阪の道頓堀に劇場・竹本座を建て、近松門左衛門の戯曲を上演すると一躍大人気に。1703年に義太夫の弟子の豊竹若太夫が豊竹座を起こすと、お互いにしのぎを削り、「竹豊時代」と呼ばれるほどに人気を博しました。

やがて歌舞伎の人気に押されて一時は衰退しますが、明治に入り1872年に三世・植村文楽軒が「文楽座」を建設、1884年には彦六座が旗揚げされ、再びかつてのような活気を取り戻しました。人形浄瑠璃のことを文楽と呼ぶのは、この文楽座に由来しています。第二次世界大戦で劇場が焼失し、内部は分裂状態が続きましたが、1955年に重要無形文化財に指定され、現在は国によって文楽は保存・伝承されています。

歌舞伎の歴史

江戸時代の初めに、出雲大社の巫女を名乗る「お国」という女性が、奇抜なファッションの「かぶき(傾き)もの」を真似た「かぶき踊り」を行い、流行しました。その人気を受けて、遊女たちによる「女歌舞伎」や、成人前の若い男性による「若衆歌舞伎」が生まれますが、風紀を乱すという理由で幕府から禁止されてしまいます。そこで誕生したのが、成人男性による「野郎歌舞伎」です。これにより、華やかな踊りではなく、演技や演出で観客を集めるようになりました。

江戸では、「荒事」と呼ばれる活気のある演目が好まれ、初代市川團十郎が人気に。一方京では優美な「和事」が好まれ、初代坂田藤十郎や初代芳沢あやめが人気を集めました。江戸文化の発展と共に歌舞伎も成長を続けましたが、天保の改革により弾圧を受け、劇場も当時は郊外だった浅草に移転させられてしまいます。

明治になると、演劇を舞台芸術化する「演劇改良運動」が起こり、1887年には天皇も歌舞伎を観覧するなど、その地位が高まりました。1965年には重要無形文化財に指定され、今でも絶大な人気を誇っています。

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