茶道・華道・香道の三つの伝統文化を「三道」と総称しています。現在はお稽古事として人気がありますが、これらに共通するキーワードは「仏教」です。三道それぞれの歴史を見ていきましょう。

茶道の歴史(平安~鎌倉時代)

日本にお茶が入ってきたのは、平安時代のことです。唐に留学した留学僧たちが持ち帰ったものが最初でしたが、当時のお茶は嗜好品ではなく薬として捉えられており、一部の貴族だけが口にできるものでした。

鎌倉時代になり、臨済宗の開祖となる栄西が宋を来訪した際、禅院で飲茶が行われるのを見て記したのが日本初の茶の専門書「喫茶養生記」です。その後、華厳宗の僧である明恵上人が京都の高山寺でお茶を栽培。やがて禅宗寺院を中心にお茶の栽培が各地で行われ、寺院や貴族のほか、武士にも喫茶の習慣が広まりました。鎌倉時代末期には、お茶を飲んで産地を当てる「闘茶」という遊びが流行しましたが、徐々に賭博性が高くなったため幕府によって禁止されました。

茶道の歴史(室町~明治時代)

室町時代になると、娯楽として広まった喫茶から一線を画し、僧であった村田珠光が禅の精神を重んじた「わび茶」を創始。京や堺の富裕商人たちに受け入れられ、弟子の武野紹鴎によってさらに広められました。その武野紹鴎の弟子が、千利休です。(写真は大阪府堺市 大仙公園の千利休像)

千利休は60歳を過ぎてからわび茶を独自の形で発展させ、現在の茶道につながるスタイルを確立。織田信長や豊臣秀吉に仕えましたが、秀吉の不興を買い蟄居を命じられた後、切腹しました。

江戸時代になると、茶道に利休の流れを汲む「流派」が生まれました。
・千利休の息子である千少庵と、千少庵の息子の千宗旦の「千家」
・千宗旦の次男である千宗守の「武者小路千家」
・千宗旦の三男である千宗左の「表千家」
・千宗旦の四男である千宗室の「裏千家」

それまでは男性のものであった茶道でしたが、明治時代になると女子が通う学校の科目として茶道が取り入れられました。ボストン美術館で日本美術部長を務めていた岡倉天心が1906年に「The Book of Tea(茶の本)」を出版すると、茶道は日本を代表する文化の一つとして国際的にも注目されるようになりました。

華道の歴史

四季折々の花を楽しむ心は昔からずっと変わらずにありますが、いわゆる「生け花」の始まりは仏前に備える供花(くげ)だと言われています。室町時代になり、書院造の建築様式が生まれると、床の間に花瓶が飾られ、中央に枝を高く立てる「立て花」が作られるようになりました。

やがて京都六角堂の僧侶であった池坊専慶が立て花の名人として評判となり、これが現在の華道の源流となります。池坊が代々住職を務める六角堂は、「いけばな発祥の地」とも呼ばれています。

江戸時代になると町民の間でも流行し、池坊の門弟数は数万人規模にまで発展。様々な流派が生まれ、体系化していくのもこの時期です。

やがて明治維新を迎えると、池坊専正が京都府女学校の華道教授に就任。女性たちが華道を教養として学ぶようになりました。

香道の歴史

香道では、香りを“嗅ぐ”のではなく“聞く”と表現します。天然香木「沈香」を聞く「聞香」と、数種類の香を聞き分ける「組香」があります。茶道や華道に比べるとマイナーな印象の香道ですが、香は茶道・華道と同様に仏教伝来と共に日本に入ってきました。

「日本書紀」には、595年に淡路島に香木が漂着し、知らずに燃やした島人が香りがするのに驚き、それを朝廷に献上した、という記述があります。主に仏教儀式の際に使用されていましたが、平安時代になると貴族の文化としても広がり、室内に空焚き(からだき)したり、衣服に焚き染めたり、贈答に使われたりしました。

室町時代になると、香木の鑑賞を中心とした新たな文化が誕生。八代将軍足利義政が香道の体系づくりを行い、公家の三條西実隆公を祖とする「御家流」、武家の志野宗信を祖とする「志野流」の二大流派が生まれました。
やがて江戸時代になり中国から線香の製造技術が伝わると、庶民の間でも香が愛好されるようになりました。

明治になると、茶道や華道と異なり、香道は衰退していきます。しかし、その歴史は途絶えることはなく、現代では香道の魅力が見直され、再び愛好家を増やしています。

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