全国各地にある城の中でも、「大阪城」「小田原城」「熊本城」は敵に攻め入られても陥落しなかった「難攻不落」の名城です。それぞれの特徴や歴史的背景についてご紹介します。

強固な守りで徳川軍の攻撃をしのいだ「大阪城」

日本で名城を3つ選ぶ「日本三名城」には時代や定義により諸説ありますが、多くで選ばれているのが豊臣秀吉が築いた「大阪城」です。現在の大阪城は陥落・焼失を繰り返したあとに再建された姿で、金箔が施されたゴージャスな外観が特徴的です。

織田信長の安土城をモデルにし、すべてにおいて安土城を凌ぐ城を造ろうとした豊臣秀吉。当時の不安定な情勢の中、自分の権威を示すために金色に輝く天守を造ったと言われています。着工から天守完成まで1年半、その後15年かけて築き上げられた大阪城は、4重の堀に囲まれた巨大さで、現在の大阪城公園の4~5倍の広さがあったそうです。

そして徳川家が豊臣家を滅ぼすために挑んだ「大阪の陣」。1614年(慶長19)「大坂冬の陣」では強固な守備を誇る大阪城を攻め落とせず、徳川軍は和議を申し入れます。深い堀に囲まれていたことが大阪城を守った要因のひとつでしたが、その後の和議での決定を破った徳川軍が内堀を埋めてしまったため、1615年(慶長20)の「大阪夏の陣」で陥落してしまいました。

その後徳川二代将軍秀忠が再築しましたが、落雷により天守は焼失。以降は天守のない城となり、明治維新の際には放火によって城内の多くの建物が失われました。

やがて1930(昭和5)年に復興工事がスタートし、266年ぶりに天守が復活。その後老朽化が進んだため1995(平成7)年から「平成の大改修」が行われ、現在のような姿になりました。

上杉謙信の攻撃にも耐えた「小田原城」

「小田原城」は、そもそも15世紀中ごろの室町時代に武将の大森頼春によって建てられた山城でした。その後、関東で勢力を広げた北条氏の居城となり、三重構造の堀が作られるなど整備・拡張され、城下を囲む堀は総延長9kmにも及んだと言われています。城下の田畑を含む堀で囲まれた小田原城は食料生産が可能だったため、包囲戦になっても長期の籠城が可能となり、それが難攻不落の城と言われたゆえんになっています。

名将と言われた上杉謙信や武田信玄の攻撃をしのいだ小田原城でしたが、1590年(天正18)に豊臣軍による小田原攻めによって北条氏は滅亡。その後大久保氏が城主となり整備されましたが、明治になって多くの建物が解体され、1923(大正12)年の関東大震災によって当時の姿は失われました。

やがて昭和に入ってから再建が進み、1960(昭和35)年に天守閣が復興。2009(平成21)年には馬出門が完成し、2015年(平成27)からは耐震補強などの「平成の大改修」が行われました。

高石垣が特徴的な「熊本城」

熊本城の前身は「隈本城」で、その名は南北朝時代の古文書に記されています。室町時代には菊池氏の一族が入っていましたが、豊臣秀吉の九州征伐によって明け渡され、江戸時代には加藤清正の手によって改修。名前も「熊本城」と改められました。

熊本城の特徴は、高く積み上げられた石垣の上に城が建っている構造です。石垣の高さは20メートルを超えるところもあり、まさに鉄壁。「武者返し」や「清正流石垣」と呼ばれる、弧を描くように反り返った石垣が侵入者を阻んでいます。また石垣は直線的でなく屈曲しており、あらゆる側面から敵に攻撃ができるよう設計されています。さらに天守に向かう道はジグザグに折れ曲がっていて敵が侵入しにくい構造となっているなど、「難攻不落」と呼ぶにふさわしい防御力です。

1877(明治10)年の西南戦争では、約3500人が熊本城に50日あまりも籠城して薩摩軍と戦いましたが、火災によって天守や本丸が焼失。1960(昭和30)年には天守が再建されましたが、2016年(平成28)熊本地震では大部分が崩壊するなどの大きな被害が出ました。その翌年から復元工事が開始され、2019年(平成30)には大天守の特別公開が実施。完全復元に向けて、現在も作業が続いています(2020年4月時点)。

知っておくべき日本の文化 へ戻る