明治時代は、日本の近代化が著しく進んだ激動の時代です。そんな混沌の時代を切り開いた特に有名な偉人といえば福沢諭吉、伊藤博文、大隈重信が挙げられます。彼らの功績の数々は、現代を生きる私たちの暮らしにも大きな影響を残しています。

そんな明治時代の近代化を支えた偉人から学べるビジネススキルを吸収し、自身のビジネスパーソンとしての成長に役立てていきましょう。

福沢諭吉の「自己分析能力と問題解決能力」

福沢諭吉は現在の一万円札にも描かれている思想家・教育家で、慶応義塾大学の創始者であり、伝染病研究所の創設や翻訳家としても偉大な業績を残した偉人です(写真は東京都・慶応義塾大学に建つ福沢諭吉像)。幕末から明治の時代にアメリカやヨーロッパ諸国を訪れて西洋の近代文化を学んだ福沢は、日本の独立を守るためにも西洋の近代思想や欧米式の生活様式を日本に取り入れることが必要だと訴え、明治維新後の「文明開化」の担い手として活躍しました。

そんな福沢諭吉にも若き日の転機がありました。熱心にオランダ語を学んでいた福沢ですが、1859年に横浜を訪れた際、外国人が英語を話しており、オランダ語が通じないことにショックを受けます。当時はオランダとしか国交のなかった日本ですが、英語の必要性を痛感した福沢は即座に切り替えて、英語とオランダ語の対訳辞書を入手して猛勉強を開始。このように自分を客観的に分析し、問題解決に向けてすばやく実行する能力は、現代のビジネスにおいて必要なスキルといえるでしょう。

また福沢諭吉といえば、その著書『学問のすゝめ』の「天は人の上に人を造らず、人の下に人を造らず」の一節があまりにも有名です。これは単純に人間は生まれながらに平等だということではなく、本来平等であるべき人々に違いが生じるのは「学ぶか、学ばないかによって生まれる」のだということを意味しており、福沢はその人生で自身も前向きに学び続け、人々にも学びの大切さを一貫して主張しています。『学問のすゝめ』には、判断力を養うためにも学問が必要とも書かれており、情報が氾濫する現代において、幅広い知識や教養を持つことで適切な取捨選択をしていくことが求められるビジネスマンにも通じる内容です。

自分がどうありたいか、何に役立ちたいか、そのために何をなすべきかを意識するように説き、後進を育てることにも情熱を注いだ福沢諭吉の考え方は、慌ただしい日々の中で目的や目標を見失いがちになる現代のビジネスマンにとって、現状打破のきっかけになるヒントが詰まっています。

伊藤博文の「交渉力」

伊藤博文は1885年に初代総理大臣に就任し、その後4度も内閣総理大臣を務めた政治家です(写真は山口県萩市・伊藤博文旧宅に建つ伊藤博文像)。

農民の長男として生まれた伊藤は、長州藩の攘夷志士(じょういしし)として活動した後にイギリスへ渡航。帰国後は通訳や外国応接係などをしていましたが、明治維新を迎えるとその語学力が認められて、外国事務局判事を始めとする明治政府の数々の役職に就きます。1871年に岩倉使節団に副使として参加して欧米諸国を訪問すると、各国の憲法を調べ、ドイツの憲法を手本にした憲法を作ろうと思い至ります。初代内閣総理大臣となった後、伊藤を中心に草案が作られ、1889年に大日本帝国憲法が発布されました。これにより、西洋の政治スタイルを取り入れた立憲政治が確立されていきます。

このほかにも、東京の新橋から神奈川県の横浜まで鉄道を敷いたり、現在の日本のお金の単位である「円」を定めた貨幣法を制定したりという業績も残しています。女性の教育の普及にも尽力しました。

伊藤博文から学ぶべきは「交渉力」です。伊藤が17歳で入塾した松下村塾の師範である吉田松陰は、「周旋屋(人と人との間を調整する者)としての才能がある」と伊藤を評しており、若き頃からその才能が見られたようです。長州藩の弱体化が進んでいた1865年には、伊藤は持ち前の英語力とその交渉力を生かして、在日イギリス人商社「グラバー商会」から武器を調達し、藩の危機を回避しました。

得意の英語に、この「交渉力」をプラスすることで、ほかの人には真似できないさまざまな功績をあげた伊藤博文。ビジネスの現場において、ベストな取引条件を獲得するためにも、ぜひ身に着けたい要素ではないでしょうか。

大隈重信の「発信力」

大隈重信は、明治から大正にかけて内閣総理大臣に2度就任した偉人です。早稲田大学の創立者としても知られています(写真は東京都・早稲田大学に建つ大隈重信像)。

大隅は、明治維新時に佐賀藩の准国老(准家老)、外国官副知事として活動。その後は新政府の参議・大蔵卿として政界に参入し、一時政界から失脚しますが、1882年にイギリス流の国会を目指して立憲改進党を設立しました。その後板垣退助の自由党と合同した憲政党所属のもと、1898年に内閣総理大臣に就任し、日本初の「政党内閣」を誕生させました。

生涯文字を書かないことに決めていたエピソードは有名で、字が下手であることのコンプレックスが理由とも言われています。字を書かない代わりに、必要なことはすべて暗記して、いっさいメモや原稿を持たず演説や討論の場に臨みました。現在残されている大隈の関連文書はすべて口述筆記によるものですが、大日本帝国憲法発布の際には自署であることが求められたため、当時外務大臣を務めていた大隈の貴重な直筆が残っています。

大隈から学ぶべきは「発信力」です。1915年の衆議院議員総選挙の際、大隈は演説を吹き込んだレコードを各地に配布するという、現在のイメージ選挙の先駆けともいえる、当時ではまだ珍しい発信方法を積極的に取り入れていました。総理大臣就任後も、大隈はかねてより総裁をつとめていた早稲田大学の弁論クラブ「雄弁会」にて演説活動を続け、そのさわやかな弁舌に磨きをかけました。乗車している汽車の窓から、停車するごとに演説をすることもあり、わずかな時間で聴衆を惹きつける発信力を持っていたようです。魅力あるパフォーマンスは、人の上に立つ者として、身に着けておきたいスキルですね。

以上で紹介した偉人たちのように、自己を客観的に見て目的意識を持ち続けること、得意なことを伸ばし、自分にしかできないスキルを身に着けることなどは、現代を生きる私たちがぜひ見習うべき点といえるでしょう。

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