第二次世界大戦後、日本の復興と経済成長に大きな役割を果たした代表的な偉人のなかから、吉田茂、白洲次郎、田中角栄の3人の軌跡をたどります。彼ら手腕と功績を振り返りながら、混沌とした現代を生き抜くためのビジネススキルを学び取っていきましょう。

吉田茂から学ぶ「権威ある人を掌握する力」

終戦翌年の1946年に内閣総理大臣に就任し、以降1954年まで五次に至る内閣を組織した吉田茂は、強いリーダーシップによって今の日本の基盤を築いた政治家です(写真は東京都・北の丸公園に建つ吉田茂像)。元外交官という来歴と、戦後に東久邇・幣原両内閣の外相を務めた経験を活かし、占領軍の指導のもと、戦後日本の立直しを遂行しました。1951年には、第二次世界大戦を終結させるため、サンフランシスコ講和条約に署名。さらに日米安全保障条約を結び、「軽武装・経済優先」主義によって、戦後に破綻しかけていた日本経済を立て直しました。

強く自己主張を通すことから「ワンマン宰相」の異名を持つ吉田は、GHQの最高司令官・マッカーサー元帥に対しても毅然とした態度をとりました。吉田が独特のブラックユーモアによってマッカーサーの関心を引くこととなった、ひとつのエピソードが残されています。戦後日本の深刻な食糧難が続く中、吉田が政府統計に基づいてアメリカ側に食糧支援を求めたところ、届けられた食糧が結果的に余ることになりました。マッカーサーから日本の示した数字がずさんだと指摘された吉田は、「戦前の日本に正確な統計が出せたなら、戦争なんかしなかったでしょう」と切り返したといいます。

ビジネスにおいて無礼な態度はもちろんNGですが、吉田のように戦勝国の権威ある存在に対しても動じず、機転の利いた返しをするという「権威ある人を掌握する力」は、対等なパートナーシップを築く上で重要なポイントといえるでしょう。

白洲次郎から学ぶ「主張を貫くスタイル」

白洲次郎は昭和時代の実業家です。1919年、中学卒業後にイギリスに渡航し、ケンブリッジ大学で聴講生として学びました。イギリス流のダンディズムやライフスタイルを身に着け、1928年に帰国。その後は英字新聞記者を経て、イギリスの商社であるセール・フレイザー商会に勤務。1937年には日本食糧工業(後の日本水産)の取締役となりました。しかし、1940年になると日本の敗戦と食糧不足を見越して、現在の東京都町田市にある古い農家を購入して武相荘(ぶあいそう)と名付け、そこで農業に専念します(写真は白洲次郎が妻の正子とともに暮らした旧白洲邸・武相荘)。

第二次世界大戦後は、かつて世界を股にかけて仕事をしていたころに面識を得た吉田茂に請われ、終戦連絡中央事務局参与や初代貿易庁長官などを歴任。日本国憲法の制定などに携わりました。イギリス仕込みの英語でGHQとの折衝にあたるなかで、相手の要求に対して主張すべきことは主張する姿勢から、「従順ならざる唯一の日本人」と評されました。
また、1951年に行われたサンフランシスコ講和会議では、全権団のオブザーバーとして同席。吉田茂の演説の草稿を外務省が英語で用意していたところ、白洲次郎が日本の国威を保つ意味から日本語で演説するよう、吉田に進言したといわれています。結果、吉田茂は巻物を手に登壇し、「日本全権はこの公平寛大なる平和条約を欣然受諾致します」と日本語で演説を行いました。

マッカーサーとの交渉からサンフランシスコ講和条約の締結まで、日本の外交を一身に担った白洲次郎。威厳を持って「主張を貫くスタイル」の背景には、ビジネスの現場でこそ鍛えられる取引や交渉の経験・スキルがあったと言えるでしょう。

田中角栄から学ぶ「人脈を築き上げる力」

第64・65代内閣総理大臣の田中角栄は、昭和後期を代表する政治家といえます。高等小学校を卒業後、工事現場で働きながら夜間学校で建築・土木などを学びました。自ら設立した土建会社の社長を経て、1947年に衆議院議員選挙で初当選。1957年に岸伸介内閣の郵政大臣として初入閣し、池田勇人内閣と佐藤栄作内閣のもとで、大蔵大臣、通産大臣、自民党政調会長、幹事長を歴任した後、1972年に内閣総理大臣となりました。
このような非エリートの来歴によって、国民的人気を得た田中角栄は、戦後続いてきた「官僚出身者が主導する政治」から「政党で育った政治家が主導する政治」へと移るきっかけを作りました。
田中内閣が掲げたキャッチフレーズは「決断と実行」。首相就任からわずか2カ月半にして日中国交正常化に成功し、その決断力は海外からも高い評価を得ました。

田中角栄は広い人脈を持つ人物として知られていました。田中が自民党総裁に選ばれた1972年の総裁選挙でも、その人脈が生かされました。1970年代の政治の中心人物である田中角栄・三木武夫・福田赳夫・大平正芳の4人が政権の座を巡って争う選挙となりましたが、田中は81人もの大所帯で「田中派」を旗揚げ。数の力で総裁選に勝利する準備をしました。
また、いわゆるロッキード事件の係争中も自民党の最大派閥を率い、影響力を振るいました。1978年の自民党総選挙予備選挙の際に、田中は全国の警察に人脈を持つ元警察庁長官の後藤田正晴を味方につけ、大平正芳を当選へと導いたといわれています。

田中は、「ひとりに誰かの悪口を言えばすぐ10人に広がる」として、個人の悪口を言うことはなかったといいます。こうした注意深さや心配りも、堅固な人脈を築けた要因の一つといえるでしょう。「人脈を築き上げる力」は、今なおビジネスパーソンとして備えておくべきスキルです。(写真は田中角栄の揮毫が刻まれた六十里越峠開道記念碑:新潟県・福島県境)

働き方や企業の在り方などが目まぐるしく変化している現代で、3人の偉人たちのようなスキルを身に着けることは、経営者やビジネスパーソンにとって大きな武器になります。戦後の日本を支えた偉人たちの人生を参考に、あなたに必要なスキルを取り入れてみてはいかがでしょうか?

ビジネス視点で見る偉人 へ戻る